歴史について

妙音院の歴史

妙音院は鎌倉法院・貞暁の開基と伝えられ、

安房国開山400年以上の歴史を誇ります。
どうぞ、その歴史をゆるりとご覧ください。

               旧本堂(関東大震災前)提灯に「安房高野山」の文字、向拝に龍の彫刻がある。

◎妙音院のはじまり

当院は、
 鎌倉期に源頼朝公第三男、鎌倉法院・貞暁(じょうきょう)が紀州高野山、一心院谷にご開基されました。
 天正七年(1579)大名里見義頼公の発願により、高野山別院・里見家の祈願寺として安房国へ開山され、 里見氏より破格の寺領161石を与えられ、保護されておりました。

 

◎時代は江戸へ

江戸の世と移り、里見公が鳥取の倉吉へと改易され御朱印地75石と減高されたものの、 それでもなお多い寺領を徳川家より保護されていました。

その理由は紀州徳川家からの庇護があった為だと云われております。 江戸時代は徳川家の祈願寺として保護されました。

 現在も徳川家より奉納されたと云う大般若経典六百巻が寺宝として伝わっています。
その後は、明治の時代まで聖方(高野聖)の寺院として活動していました。

 


安房高野山八十八ヶ所霊場の開基

明治28年(1895)、上総国の前羽覺忍師と云う老尼僧が来山され

「私は弘法大師を信心し、 四国八十八ヶ所霊場を遠くの地でも礼拝できる場を作りたいと願い全国を廻っています。
 夢で安房に霊山があるとのお告げを受け、来てみると夢で見た場所にそっくりだったのです。 どうぞここに霊場を…。」

と当山住職に懇願し、 一山全体に四国霊場を遷した「安房高野山八十八ヶ所霊場」が開基されました。

 石工作りの大師尊象が一体一体名工の手を借り、 高野山住職の開眼法要を受けて、約二年の歳月をかけてご奉納されました。

この中には、彫仏師初代後藤利兵衛義光や楠見の石工俵光石の作品もあり、 境内には古い石灯篭の磁石や宝篋印塔の一部があります。


 

◎関東大震災にて寺院倒壊

大正12年の関東大震災にて本堂、薬師堂が倒壊しましたが檀信徒の協力のお陰ですぐに桜の名所として親しまれる寺に復興されました。

 戦前までは桜の寺として知られ、 民謡 「館山小唄」 でも(春は妙音院、花どころ…)と歌われていました。

 

 ◎太平洋戦争東京大空襲にて寺院消失

時代が進み昭和初期…
太平洋戦争東京大空襲の後、 館山の地にも焼夷弾が投下され、米軍の落とした一発が当院に着弾したのでした。
その時本堂、庫裡、諸堂や桜など焼失し、唯一焼け残ったのが現鐘楼堂、山門です。

 現在もなお焼け焦げた鐘楼堂が、その当時の様子を物語っています。

 

◎身代わり大師・身代わり不動

不思議な話…
当院の歴史を振り返ると、数々の戦災害を受けながら死者は勿論のこと、負傷者も出なかったそうです。
身代わりお大師様・不動様が難を変わって下さった為、だと言い伝わっております。

 自身の身を呈して人々の幸せを願うお大師様、お不動様。その父のような力強さが現在も尚、私たちの心の支えになっているのです。

 

妙音院復興の物語

奈良県から遠く房総半島の館山へとやってきた。

不安を抱き

着いた寺には、本堂も、仏様も、仏具も、一切なにもなかった。

「さぁ、これから どうしていけばいいのやら・・・。」

そんなことから

この物語ははじまります。

 

 

20年前に住職が晋山した時、長く無住職の時代が続いたため境内は腰の高さまで草が生えて元本堂があった場所には野菜畑となっていた。

その後 檀信徒を説得して

本堂跡地へ 仮堂を建て毎月21日の弘法大師ご縁日に護摩祈祷を始めた。

なにもなかったため仏具は、湯吞茶碗を代用し必要な仏具は全て手作りした。数年経った時それを見ていた先輩僧侶より古い仏具を譲り受けさらに祈り続けた。

 

 

 さらに遠く関西の地から仏様を納めたい方とのご縁をいただいて・・。仮堂建設から12年経過の後・・・

本堂は

檀家皆様による20年前からの積立金と多くの信者さんのご浄財により

平成24年12月に89年ぶりに

再建された。

 高野山弘法大師様の御住坊といわれる御影堂(みえどう)と同じの宝形造りの屋根、扉は木材の跳ね上げ式の

蔀戸(しとみど)となっている。

 皆様の多大なお心に感謝申し上げると共に、そのお心をお返しできるよう

今後も修行を続けてまいります。

 

 

妙音院(明治~大正)の写真

桜の名所として多くの人々が訪れにぎわった。

山の中腹には、茶室が建てられ、盆栽、菊花の品評会なども開催されて文化の発信地であったと言われている。

(檀家の長老より聞き取り)

 

この時代に少しでも戻せるよう皆様に喜んでいただけるよう(少しずつではありますが・・)努めて参ります。

歴史資料コーナー   

 

・徳川家代々の朱印の写しが寺宝として残されています

御朱印の写し 眞倉村二十石、朝夷郡白濱村五十五石八斗、七十五石八斗と記す。

 

・文献: 紀伊続風土記より (天保10年成立)

 

高野山の妙音院(一心谷) 

御本尊妙音天 弘法大師の作

護摩堂本尊不動明王 智證大師の作

阿弥陀如来 恵心僧都の作 

内道場本尊地蔵菩薩 聖徳太子の作 と記載されています。  

※(高野山妙音院は、火災により焼失)現在は高野山・光明院内にあります。

 

當寺帯安房国安房郡眞倉郡眞倉村 光照山醫王寺妙音院 ←現、妙音院の事です!

本堂本尊薬師如来 行基の作 御朱印七十五石八斗

 

末寺 城州相楽郡南大河原村 大龍寺

  ↑

(京都府相楽郡・大龍寺の情報を募集中です!大龍寺の寺跡を訪れお参りしたいと思っています。)

 

ダウンロード
紀伊続風土記1-3PDF.pdf
PDFファイル 419.8 KB

・高野山古地図上に見られる妙音院の名前 (クリックすると拡大します。)

高野山の古地図より妙音院が確認できます。

目印は、金輪塔の左側です。

現在の高野山・西室院さまの道向かい側に妙音院があったようです。

 

高野山金輪塔の写真 (江戸後期)

この金輪塔の向こう側の大きな建物が高野山妙音院です。

(移築される前の高野山の不動堂です。)

・房州の僧侶が昔、高野山妙音院で勉強したことを示す資料

房州(房総)と高野山の繋がりを示す資料です。(富山市立図書館HPより

房州の頼鑁さんというお坊さんが高野山妙音院にて如寳愛染王法を勉強された時に書き写した物です。

 

如寳愛染王法 

天正十四年(丙/戌)五月廿八日夜筆書冩之/房州住僧頼鑁号性雪宿坊高野山/於一心院 妙音院求之秘々々々而已」印記:「寳珠院藏本」

 

お願い 

皆さんのお手元に妙音院に関する 古い資料、写真がございましたら、ぜひ お知らせ下さい。

妙音院は、戦時中の空襲により多くの文献を焼失しておりますので参考にさせていただきたいと思います。許可をいただければ資料はコピーしてお返しします。

ただ今 捜しています! 

①戦争で共出した「妙音院鐘楼」梵鐘

②「快算法印について」

 

①戦時中に供出した鐘楼を捜しています。

戦後に「妙音院の鐘楼がありますよ。」と連絡をもらったのですが

当時は資金もなく取りに行くことがかないませんでした。

もし、今どこかで大切にされているのであれば、

そこへ行きお参りさせていただきたいと思っています。

おそらく、「安房國または房州眞倉村 安房高野山 妙音院」 と刻銘があるかと 思います。

 

②妙音院を開山された「快算法印というお坊さん」について情報をさがしています。

(高野山よりはるばる房州へに来られた方みたいです。)